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P.スペース
かつて我々の稽古場の下にはもう一つ劇団が入っていた。
新人類人猿という劇団が活動する、P.スペースという場所があった。
そこは稽古場でもあり、彼らの“劇場”でもあった。

まず我々の稽古場がどういうところにあるかというと。

幹線道路沿い。交通量は多い。
しかもその道路にクロスしてJR北陸本線の線路がある。
道路はその線路を“陸橋”でまたぐ。そのクロスしている角にある。
古い倉庫。
トタンで葺いた安普請の極みのような建物。
夏は灼熱。冬は極寒。電車が通ればうるさい、右翼の街宣車が通ればこれもホントにうるさい。
昔は自動車修理工場だったようだ。
その2階が我々の稽古場、1階がその「P.スペース」だった。

かつてはその倉庫の隣にも部屋があり、そこにも劇団が入っていて、稽古をしていたし、「P.スペース」を別の劇団に稽古場としてマタ貸してたこともあったので、劇団だらけになっていた。たまにバンド演奏も聞こえたり……
稽古場の隣には葬祭会館。気がつけば葬式やお通夜で黒い衣装の人がよく集う。
道路の向こうに目を向ければラブホが2件。時間によってはデリヘル嬢の送迎車がウロウロしている。
それらの近辺にはナニゲに一般人の住宅や工場、事業所などが建ち並ぶ。
少し足を伸ばせば近隣にはソーシャルダンススタジオや雀荘があったりする。
最近は北陸新幹線の沿線工事が始まり、多分稽古場のすぐ横が新幹線用のパイルがそびえ立つことになるのだろう。
いやーもう、なにがなんだかだ。不条理な界隈。

「P.スペース」では、前衛<アバンギャルド>、アングラ<アンダーグラウンド>というカテゴリーのものを不定期に上演していた。
だが、基本的には維持費負担の問題だと思う。新人類人猿はそこを離れていった。


「演劇身体塾 vol.2 Composition 2010」 金沢市民芸術村PIT2


先日、どうしても観ろといわれて、見に行ったのがほぼ2年ぶりくらいの舞台。
お弟子さんの成果発表のニュアンスもある。
セットは、以前観たものよりすっきりした印象。
相変わらず趣味は良い。

このPIT2をもっとも広く見るには中央の東西方向を使うのが一番良い。
それを西にホリゾントを決め、東にはひな壇型の客席。
パフォーマンススペースは客席正面に階段。巨大な存在感のある階段。断頭台に向かう階段にも見えるし、天国への階段の様にも見える。モノトーンの色使いが、彼岸の際にいる気分にさせてくれる。
光はその段を抜けて見えるので大きな肋(あばら)骨のように感じる一瞬もある。
その9尺くらい上がった段の上はエプロンがありカミシモに伸びる通路という具合になっている。
その更に後ろは剥きだしのPIT2の壁。壁にはもともと格子状に角材がはめ込んである。それが階段とマッチしている。
舞台前面へと目を移すと、全面は平床。
黒のリノリウムで養生してあったと記憶している。
出演者の一部に激しい動きを要求するためその養生はしておかないとと、今思い出しながら思う。

気が利いているのは舞台前面のカミシモ<右と左>のしつらえ。
黒幕を使っているのだが、ただ“垂らす”のではなく、写真スタジオのホリゾントのようにアールをつけて垂らして、更にその幕と幕の間に隙間を造っている。
そこを“袖”と見立てて、俳優が逃げ込むこともできる。
ステージサイドライトを隠して設置することもできそうだ。
かなり奥まで逃げ込まないと完全に見切れないと思うが、見切れる云々よりもその幕の建て方自体がオブジェの効果を出しており、PIT2の無骨なイメージを隠し、いつものPIT2とは違った感じを出すことに成功していた。
シンプルなのだが巧みで、これを一から組もうとすると資材面も含めてかなりの投資になるだろう。舞台装置「◎」。
照明もフィットしている。
その場の空気を作り出す「間」。荒涼とした空気。
光の白さ、またその鈍さ。巧みに時間を使い、「場」を織りなしていく。
その与えられた装置をカンバスに見立てて淡いエッジの光彩を塗り込んでいく彩色職人のような繊細さと大胆さを感じる。「闇」ですら「みえている」。
音の切れ込みも鋭い。音は感覚。言葉という記号を持たない言葉。
音と光は渾然一体となり、その階段のオブジェに時間と次元を超える機会を与える。
彼岸へ連れて行ってくれそうなそんな感じ。

そして芝居。誤解を恐れずに、まず万人には受け入れられない。といっておく。
それを企図してもいないだろうが、それを承知でこの感じに気づいて欲しいという「願い」は感じる。

この舞台を構成し制御するアイディアは一級品で、身体は「制御」してなんぼのもんじゃ!という宣言のように、全編これ「制御」で展開する。

やがてふとその俳優の顔ぶれを見ると、ここ金沢では充分に「信用に足る」顔がそろっていることに気づく。
その顔から、これからこの時間はその提供される表現の方向、質に限らず、十分に吟味され積み上げられたものを展開しているのだな、と言う気になる。
安心してとは言えないが、最後まで鑑賞できそうな保証はされていると感じる。
俳優は顔が大切だとつくづく思う。

内容はどうもコラージュのようである。
何かの芝居の一節、何かのダンスのフォルム、何かの印象を……並べてある。時系列で。
無言劇を通り過ぎ、コンテンポラリーダンスを通り過ぎ、台詞劇を通り過ぎ、ハプニングのような、仕込みのような、朗読劇のような……そういうレビューの様でもある。

それら一場面一場面に壮大なエネルギーを注ぎながら、中心がない。
中身がないのとは違う。中心を感じないという感じ。意識的にだ。

自分に投影し解釈を施すと、それはまるで、戦後、いや、明治維新以後日本人が主体性を無くし、大いなるポテンシャルを秘めながらただ右往左往するだけの民族に追い込まれている様子の比喩のようにもみえる。
去勢され、意気地なく、なぜそこにいるかという実感もないまま、搾取され。
搾取されるもの同士がくじりあい、痛めあい、なれ合い、なぐさめあい。ただよう。
もはやなぜ漂っているかすらわからないくらい、記憶は遠くへ。
DNAに刻まれたものを頼りに彼方を眺め、日常を繰ることくらいしか、ない。

この身体塾に集う俳優たちは以前より進化したと思う。
進化したもののみが残ったのか。それはわからない。
表現はより内向的になり、内側へ内側へと叩きつけるように密室的なのだ。

最後のシーンに向かっての仕掛けで着ぶくれしたこととか、型とか様式にこだわるため、その俳優のもつ背景が透けそうになることなど、細かいことはこの際、置いておこう。

この芝居は観る者の内面を写す鏡のようなもので、その鏡はかなりの精度で磨き上げられている。
少なくとも私は、この現代アートをそういう種類の劇物なのだと規定する。
観る者自身が社会一般に対する“漠然としたものではなく”決定的な問題意識を持っていないと、この劇物は反応すら示さない。 かといってそれに気づくことが特別優れていいことではない。その危険さにも気づきもせず“シカト”し“珍奇な趣味”として片付けてしまう観る者もいてもいいのだ。
が、少し残念なんだなそれじゃ、というため息のようなものも念入りに仕組まれているようにもみえる。
問題意識の存在に気づき、「娯楽」や「恐怖」を注意深く眺める目線をもってして、はじめて劇物の「劇」の毒に“あたる”ことが許される。
あたったが最後、絶望と喪失感とが、深い共感を産むだろう。取り返しのつかないものとして。
その苦さは、得難い価値を持っている。



P.スペースはもうない。今は、写真家がそこを借りているだの、スタジオになっているだの、階下のことだがハッキリしない。
そのハッキリしない有象無象を周り中に抱えながら我々の稽古場はまだそこにある。
[2010/04/30 21:54] | シバイ | page top
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