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懐かしくもあり、純でもあり・・・演劇集団ROUGH 『3×6≠サーフィン』
ふらりと入った芝居小屋の空気感

東京へはよく芝居小屋や美術館へ行った。
今もたまに出かけるけれど、以前ほどの元気もないので行く回数はめっきり減った。
ほとんど探検をしにいく感じで、チケット予約などせず、思いついたらポーンと行って3本から4本固め観をしてしまう。 当然、演目もそうで、だいたいこれを見ようと決めているのは一公演くらいで、現地についたら「並ぶ」。 当日の立ち見で観てくる。 これが自分の中の「粋」。
 立ち見席に相当たらなかったら・・・それはそれで今回は縁が無かったんだと引き受ける。 違う芝居小屋を探す。 実際、自分の2人前で「本日の立ち見のお客様ここまでデース。申し訳ございません。また次の機会にお越しください」って切られた事もあるし、自分がその最後の立ち見客に滑り込めた事もある。 そんないきあたりバッタリな弾丸観劇ツアー。 期待していたものが「大外れ」の時もあれば、思わぬ原石に相当たる事もある。 そんな無駄遣いを楽しんでいるっていうかなんなんだろこれ。 だから観劇は基本的に一人でいく。

金沢学院大学 演劇集団ROUGHを観に金沢市民芸術村へ。

ホントはここ金沢市民芸術村もそういうぶらりと観に行くのに都合のいい場所のはずなんだけど、ちょっと違う感じがしていた。地元民だからだろうか。よくわからないけど。ちょっと足が向きにくい感じがあった。

以前タクシーに乗って運転手さんに金沢市民芸術村の事を話に振ったとき「ああ、大和町の、紡績工場跡ですよね。あそこもなんだかよくわからないですね。なんかやってるみたいですけど」「好きな人が好きにやってるんじゃないですか?関係ないですけど。」というのを何度か聞いた。
うーん、そうなんだよなぁ。全部が全部そんなのではないとは思うけど、・・・そうなんだぁ。そうかぁ。
・・・どうもこういう言葉を聞いてしまうと「街との接点が足りない、もっと大衆受けすることをしないと」とか「芸術村はおわった、もっと別の切り口を」とか「そもそもこの街の人に文化のことを云々できるのか?」とか、向こうっ気がむくむくとしてくる。 散々無駄づかいして、そこに落ちてきていた「予算」が無くなってきた途端、居なくなった文化破落戸のことを思う。ペテンだったなあれは。

そんなこんなで「行政」が演劇人に歩み寄り、演劇人が行政と協力してより良い演劇文化行政のあり方を探ってきたはずの・・・と考え出してしまうので、ここが「重い」「めんどくさい」「足が向かない」ことになる所以なのかも知れない。

 さて、ROUGHの演目は「3×6≠サーフィン」(サブロク≠サーフィン)。オリジナル作品。

 なんちゅうか、この作品、初めて観るのに「懐かしい」。っていうか、この金沢学院大学の活動の雰囲気そのものが懐かしく、心癒やされるものがある。 当事者たちはそれこそ眼前の目標で一杯一杯ってところもあるので必死だろうけど……観客としてはそれを想う。 

台本のことや演出の事、出演者の事、それぞれがまさに無手勝流で、そういうことに手慣れたものの手際からは少し遠く、むしろ、良き「学生」、良き「アマチュア」の香りがある。 例の東京で行った当日、ふらりと入った芝居小屋の空気感がそこはかとなく漂う。
 それはなんだろう。 自分の目指しているところにも少し重なるところがあるのだけれど、「掛け値の無さ」とでも表現すれば良いのか。 この一瞬一瞬はまさに一期一会で、2度と巡ってこない儚さが尊い。 離れ業をキメるかのような、それもROUGH関係者全員で乗り切るのだっていう懸命さがこの時空を劇空間に変えている。 映画「シックスセンス」や「ゴースト」「シャイニング」などへのオマージュを遠くに感じつつ、桑田佳祐に代表される日本の音楽の歌詞世界を大切にしている。 何より、これらの作劇上の雰囲気の上に載せこの作品で最も大事にしているのは、今や国民的マンガとなってしまった「ONE-PIECE」にも通じる「仲間」や「家族」への憧憬であることを感じる。 そこには「啓蒙」とか「説教」とかではなく、既存の世界感や規約などがんじがらめに絡め取ってくる旧秩序に対する「疑い」を、それこそバッサリと「仲間を信じる」ということと「愛」の二刀流で、斬って見せてくれる。

技術的には音響の音量と俳優の生声の音圧差がちょっと厳しくて、単純にセリフが聞き取れないシーンもあったけれど、誠実に練習を重ねた演技と全員の意識が一点に集中しブレていないこともあり、観客は芝居を観る中で意味内容を補完していく事が出来る。
全体的に、スタッフワークにそつが無く、照明、音響、舞台装置、小道具など細部までよく考えてあり、またよく作ってある。
学生演劇としては充分に良いものに仕上がっていると思う。

何よりROUGHの公演活動に対する姿勢や努力こそ評価されてしかるべきものがある。
大勢で戯れる経験の少ない子供時代。もうそんな世代が社会へ羽ばたきだしている。
「環境」がますます「外で誰かと遊ぶ事」を阻害する。
けっして彼ら自身が決めたわけではない「環境」によって囲い込まれ、規定されていく中、彼らは、その失った時間を取り戻す勢いで部活で「戯れる」。 懸命に「この場」を信じて演劇という絵空事を仕組む。 努力を重ね、工夫をし、懸命に戯れている。
その「戯れる」時間と場所を維持し、さらにはキャンパス内に留まらず拡張しようとしている。

これは素晴らしい事だと思う。
もっともっと戯れてほしい、あきれるくらいラフに冒険をして仲間を発見して欲しい。

かつて自分が観た、東京でふらりと入った芝居小屋で観る、観た事も無い劇団が催す、決して上手いとは言えないが、心のこもったパフォーマンス。
「へぇー、こんなドラマも成立するのか・・・」と「拾った」感じを発見できる。その時の感覚に近いものを感じた。


ところでこの作品、どうも当初発表していたものとは変わってしまったらしい。
活動していくっていうのは、いろいろあるとは思うけど、公演をちゃんとやりきれるところまで持ってきたのは立派。


演劇集団ROUGH 第13回公演「3×6≠サーフィン」(サブロク≠サーフィン)
【日時】 11月26日(土)14:00~/19:00~ /27日(日)14:00~(開場は上演の30分前からです)
【場所】金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房
【料金】前売500円 当日800円 (団体割あり)
【脚本・演出】山本由幸×金森大輔
【出演】演劇集団ROUGH
松川正美 川上未由季 宮川恵吏佳 杉木奈未 笹山かんな 井達拓人
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[2011/11/27 09:56] | シバイ | page top
いしかわ演劇祭2011 シンポジウム 雑感
祭りは終わった。

原発事故と演劇は今回どう関わったのか

シンポジウムが開かれた。

状況としては実は何も好転しおらず、むしろどんどん地滑り的に悪くなっている。
考えたくない、直視したくない状態に陥っている。
マスコミは、都合の悪い事は覆い隠し、政府東電のアリバイ作りに一役買う事ばかりを考えている。

グルだからな……仕方が無い。

兵站が細る中必死になって大本営発表をやり、サーカスを提供し続けている。

そんななか「癒やし」として人々に「忘れ」と「娯楽」を提供する「慰問団的」振る舞いをするのが、演劇の主な役目なのだろうか?
それとも不安や不満に憤り、権力の理不尽さを訴え、戦いの最前線に飛び出していけば良いのか?。
もっと他のなにかがあるのか?


シンポジウムが行われた。

ウィキペディアによると

シンポジウム (symposium) は、古代ギリシャの饗宴(Συμπόσιον symposion)に由来する、「研究発表会」「討論会」をさす言葉。「シンポジウム」は特定の言語での読みではなく、ラテン語では「シンポシウム」、英語では「シンポジアム」である。

本来はいっしょに酒を飲む、という意味。プラトンの対話編『饗宴』にもその様子が描かれている。
現代のシンポジウム [編集]

一般的には、あるテーマを決めて広く聴衆を集め、公開討論などの形式で開催されることが多い。現在の日本でも新聞社や企業、自治体、研究団体などが主催して様々なシンポジウムが行われている。もっとも多く見られる進行方法は、まず第1部で基調講演が行われ、その後に第2部としてパネルディスカッションが行われる。この他、小グループの活動報告や、余興(例:和太鼓)が行われることもある。

パネルディスカッションではあるテーマを議題として、数人の論者(パネリスト、パネラー)が意見を述べ、互いに討論を行ったり、会場から質問を受けたりしながら進行する。論者の選定がポイントであり、また司会者(コーディネーター)の役割が重要である。事前に打合せを行っておかないと、かみ合わない話のまま進行してしまう事例もまま見られる。



はてなキーワードでは

symposium?

何らかの問題についての意見や研究結果の発表会。ギリシャ語で「いっしょに飲む会」というのが語源。


とある。

重いテーマで「いっしょに飲む」っていうのはなかなかたいへんだ。

皆口を開けばどう関わりを見つけ出していこうか、悶々とした葛藤を抱えた言葉が続く。
そのお葬式のような状況にも誰一人席を立つ事無く見守っている。

自分が時間を読み違えて、30分以上のオーバーとなってしまって申し訳なかったと思っていますが、少し垣間見えてきた事がある。

すべての「戯れ」が吹っ飛んでしまうほどの空気が迫ってきた。ただ立ちすくみ、「想像力」を遮断して対処しなければならないおおごと。
それは現在も進行中であり、対処し続けなければいけない局面である事。

この衝撃の大きさ、もどかしさ。
笑うTVショウ、鳥肌。沸くスタジアム、ヤバさ。
なにも受け付けない静けさ。

だからこそ演劇するものは「想像力」を働かせることをやめてはいけないということなのだろう。



檄団トラベルボンバーズの石川さんの発言。
「劇中、周りにいた若者たちがあっという間に死んでしまうシーンがある、それがね・・・・」っと、あとは嗚咽で言葉を詰まらせた・・・。

この心動く言葉が聴けたとき、後は着地しかないなとMCとしての自分は舵を切り出している。
このあたりがちょっと職人なんだな、へたくそな職人。
そんな職人にならなくても良いのに、石川さんに駆け寄れば良いのにと、四〇%くらい思いながらも。
[2011/11/07 12:35] | シバイ | page top
胸いっぱいのメタファーを⑥(いしかわ演劇祭2011の雑感・感想文のようなものですね。)
札幌ハムプロジェクト「ジャマコ、せかいをすくう。」
作・演出 すがの公

やはり、可愛かった。
札幌ハムプロジェクトの「ジャマコ、せかいをすくう。」は、その期待を裏切る事無く、下から目線で油断させ、そして時間が経つほどに“可愛らしく”“愛おしく”観る者の心に忍び込む。少し意地悪な書き出しだけれども、札幌ハムプロジェクトの醸し出す「無垢」な時間がまぶしくてしょうがないからこそのレトリックだとご理解いただきたい。

なんと言ってもワゴン一台。
それも「ハイエース」クラスのラージタイプではなく、「ノア」クラスのミディアムサイズワゴンに役者5人と道具一式を詰め込んで日本中を回ろうって言うんだから、若くなきゃできっこない。
定住する民族である日本人のなかで「旅」をしながら「劇」するものはやはり「異」なものとして写る。 
主に「同」なものの中で「劇」を仕組む金沢の演劇人にはそれだけで羨望のまなざしだ。
主宰のすがの氏は“観客を探しに出た”といっているけど、なんちゅうかこの人にも「人生差し出してる感」というか「迫力」を感じる。
作品は、題名は震災前に考え、内容は震災後に考えたという。
震災後は不覚にもテレビを見てしまい、テレビの情報に感染したという旨の自戒をしている。

ものづくりをするものとしては、そうだろう。

インプットされる部分にすでになにか二次的な意図(エディートリアル)が忍び込んでいる。
そこを元にしてアウトプットをしようとしても、すでにそこで起きている「生」の事とは似ても似つかないものになる。
でも、すがの氏は、だからといって一次情報を求めて戦わないという。
芝居の上演で行った先で出逢うことがらもあるが、自分が行ったところで何ができるというわけでもなく、ただその話を承ってくるだけ。風景を一緒に眺めてくるだけ。
寄り添う事も必要だが、ものを作るときは、むしろ遮断する。引き籠もる。
これは「自分の身近にあるものしか、表出できるものはない。」と考え、身近な自分の「生」に向き合う態度が糸口なのだと考えているのだろうと思う。

で、芝居はね、もうね、有り体にいえばね、「やられた」感で一杯ってこと!
だって可愛かったんだからいいよね。愛おしかったんだもんね。泣けてきたから、それでいいじゃんってこと。

ジャマコは、世界を救ったのだ!。

去年の演劇宴会然とした雰囲気と違って、芸術村PIT2に相呼応して「見せる」芝居になっていた。
でも、それで全然かまわないっていうか、それでいい。

演劇を仕組み、どうやってその時間を良いものにしていくか工夫をし続けている者としては、非常に示唆に富んだ時空。

「まぁ、みんなタイヘンだな」と、いつの間にか寄り添い、「(すがの氏がいうとことろの)無駄なものでもみてくれよ。」
「この無駄に比べたらあんたの無駄は価値があるよ」といわれているようなもので、なんだか「幸せの黄色いハンカチ」的、シェーンカムバック!なのだ。

「旅する演劇」のなせる技だねぇ。


いしかわ演劇祭2011Dプログラム 2011/11/05
札幌ハムプロジェクト「ジャマコ、せかいをすくう。」
【作・演出】 すがの公
【出演】 天野さおり、彦素由幸、小川しおり、大澤恵衣、渡辺友加里
[2011/11/06 08:31] | シバイ | page top
胸いっぱいのメタファーを④(いしかわ演劇祭2011の雑感・感想文のようなものですね。)
檄団トラベルボンバーズ
「時に君は君でなく、そして僕は戸惑いの空間で揺れる旅を続けてしまう」

 このタイトルにルビを打てば「ときにきみはきみでなく、そしてぼくはとまどいのくうかんでゆれるたびをつづけてしまう」となる・・・。

 仮にこれの「君」は「王」、「僕」は「しもべ」という意味で読めばどうなるだろう。
「王は王ではなく、しもべである私たち庶民は、ただ戸惑いそれでも生きなければならない・・・」とでも意訳してしまうと・・・ま、かなーり無理があるけど。そう読むと作・演出 熊野氏がこの題名に込めた「時代の解釈」が明確になってくる気もする。

 芝居は非常に手練れ感のあるエレピとアコギのユニットの演奏からはじまる。
この二人は楽士として「客入れ」から「終劇」まで舞台奥下手よりに控えて音楽と効果音を奏で続ける。この楽士から芝居がはじまる旨の、シェイクスピアばりの口上を聞く事になる。

 「芸術村で公演するのは初めてですが一生懸命がんばります。笑えるところは大声で笑ってください(だったかな?)」これはまた、人を食ったような口上で、このあとの展開に一抹の不安と期待を抱かせるのに充分な仕掛けである。

 その後、楽しげな出演者が次々と現れ、グランドホテル形式よろしく学園でのドタバタから「アナホリ・グローバリズム」という会社の怪しげな核燃料再処理工場らしき中間貯蔵所の現場へその生徒たちが動員される様子が描かれる。
 後半、その「アナホリ・グローバリズム」の現場でおそらくは使用済み核燃料の入ったボトルを並べるという作業へと場面が変わる。
 そのときの衣装の変化の異様さになんとも言えない不可思議さを感じた。
生徒たちが無邪気に、自由闊達にやってる学園然としたカラフルな感じの生命力に溢れた舞台が、白装束にカラータイマーのような線量計を胸に下さげてという出で立ちで再び生徒が整列したとき、ドリフの少年少女合唱隊を彷彿とさせつつも、明らかにゾッとする印象に変わっている。
 みなウキウキした感じ。それが逆に痛い感じを送ってくる。
 3月末、AERAが「放射能がやってくる」と銘打って表紙にしたあの妙な感じが蘇ってくる。

 現場監督の指揮の下“マニュアル通り”の作業をする生徒たち。
遠くから不安な視線を送る教師たち。
 仕事よりも恋愛や不倫を語りあい、告ったり告られてたりで、なんだか楽しげな現場の人たち。

 さてその芝居のタッチなのだけれども、彼らの芝居はお世辞にも洗練されているとは言いがたい。言い方は悪いがどう見てもパっと見は田舎くさい素人芝居なのである。ところが最初の印象から20分もたつと、「これはひょっとして、意図しているのか?意図的にやってるのか?」と思えてくるから不思議だ。

その証拠に、彼らはトチらない。
決定的にセリフを見失い芝居が頓挫する事がない。
どこかヨタヨタしているのは、原石のような第一印象のきらめきと、ここでの出逢った感じを大切にしているからなのではないかという意図を感じ出す。

 トラベルボンバーズの芝居にはここ最近北陸にやってくるテント系芝居「どくんご」や「楽市楽座」、今度やってくる北海道の「ハムプロジェクト」へのオマージュの様なものを感じる。
 つまり「下から目線」、目指せ「演劇宴会」なのである。

これは大切な事だと思う。

 けっして潤沢に時間があるわけでもないだろうし、これだけのメンバーを集めての稽古は頭数もそうだが仕事との兼ね合いなど考えるとそうそうできるものでは無いと思う。
 寸暇を惜しんで彼らは個的に、パーツごとに、ユニットごとに地道に稽古を重ねてきたのだ。
じょうずになる事の対極にあるものを目指して。

 むかし「DEVO」という音楽グループが「人類の退化」をテーマに掲げ、テクノの先駆けとして活躍していた。人間の音楽があるなら「洗濯機」や「掃除機」に音楽があっても良いはずだと、ステージ上には洗濯機や掃除機がうなりを上げていたらしい。
 そのメジャーデビューシングルがあのストーンズの「サティスファクション」だった。内蔵がねじれていくようなイーノのアレンジを聴き「何じゃこりゃ?」と思った。
 あのかっこいいはずのサティスファクションがこんなになっちゃった・・・が、実はやぼったそうに聞こえてものすごく上手く料理されている。すぐ大好きになった。

おもしろみを見つけた瞬間だった。

 つまりトラベルボンバーズはこっちがそんな印象を持ってしまうくらい実は稽古をこなしているとみた。もちろん必要にして充分な量を。

 もうひとつ、特筆すべきは観客。
 観客が彼らを包み込み何をしてくれるかわくわくしながら注目している様子がよくわかる。ナント暖かいお客さん。素晴らしい環境になったと思う。
 彼らにとっては、この芸術村はアウェーなわけで、もしかするとボンバーズの本拠地「メロメロぽっち」での公演でこそ、その熱さ、一体感が炸裂しているのかも知れない。(金沢の真の街の演劇のメッカは実は「メロメロぽっち」なのか!?。)


 さて芝居は・・・あるときマニュアルにはない手順で事故が起きる。起こるべくして。
胸の線量計は何も反応せず、部屋のアラート表示が危険表示を示している。
その欺瞞に気づいたときには生徒も監督もみな倒れ息絶える。

 終劇には再び口上が、次回公演の事までが述べられ普段の通りの生活に返してくれる。
しかし、この作品を観る前とあとでは微妙にだけれどもそして明らかに普段の生活が、クリスマスが、違っているはず。
 そう信じたい意図を感じつつ。
 枯れ葉のようにその想いが堆積していった後のことを想い席を立った。

 作家の知性の豊かさと感性の鋭さ。それを理解し実行する座員のチームワークの良さがでた結果だと思う。


いしかわ演劇祭2011Cプログラム 2011/11/03
檄団トラベルボンバーズ「時に君は君でなく、そして僕は戸惑いの空間で揺れる旅を続けてしまう」
【作・演出】 熊野盛夫
【出演】 前このみ、宮本真奈、ル・高野男、野坂雄二、すぎぼう、平田よしわるし、角田ユリエ、たば、岡田直紀、田尻敦彦、石川雅明
【生演奏】 石川征樹、加納麻奈美
[2011/11/05 13:29] | シバイ | page top
胸いっぱいのメタファーを③(いしかわ演劇祭2011の雑感・感想文のようなものですね。)
劇団アンゲルス「三人の子供たち」
原作:リャオ・プイティン(マレーシア)
台本・演出:岡井直道

ようかいばんどの演奏のホンモノさ加減、本気度。
テクニックなど当たり前、表現はその先にあるのさ…泥臭くロックしているかっこよさ。
やっぱ「リフ」ひとつとっても年季の入ったミュージシャンはちがうなぁ。
もう立派にオーケストラピットだもんなぁ。
「オケピ」対「芝居」みたいな緊張感溢れる舞台。

メッセージはすすめ!すすめ!すすめ!。そんな感じ。
子供たちのすすめ!すすめ!すすめ!って言う言葉が牽引している。
無邪気にもすすめてきた結果。
その後の世界を切り開くのもすすめ!すすめ!すすめ!。
時は待ってはくれない。立ち止まらない。
これから何が起きようとも、すすめ!すすめ!すすめ!。

これはやはりプロの芝居である。
プロというとそれで対価をもらい、糊口をしのぐというかそういうものだろうけど、実は日本の表現分野におけるそれはかなり違う。
つまりはプライドの問題だったりする。
実際にプロという概念で自分のやったパフォーマンスだけで食べていけている俳優なんて、この日本に何人いるだろうか?。市場がその程度のものであるとなると、あとは「世が世なら」これだけのことができる俳優ですので、これだけはとれるのだけれど、という思いを持ちながら臥薪嘗胆努力を重ね続け、プライドが折れないように爪を研ぐ。牙を磨く。
そういう事を続けている俳優が実力の一部を垣間見せ、演出家との凌ぎあいのなかモノにした、詩編なのだ。
俳優は「人にあらず」と書き「人を憂う」と書く。

叫ぶ俳優。

子供たちは叫びあそび、進む。
バンドはため息をつき、毒を吐く。
映像は記憶にダイレクトに訴えかけてくる。
様々な「これは!こうだろ!」が一度にひしめき合う。

ELP(Emerson, Lake & Palmer)というバンドのレコーディング風景で、キーボードのフェーダーにはキースエマーソン、ベースのフェーダーにはグレッグレイク、ドラムのフェーダーにはカールパーマ-が張り付いて、ミックスダウン中に自分のパートの大きさを争ってたって逸話(ホントかどうかは知らないけど)があるけど、そのくらいイメージの奔流、カオスを観客にぶつけてくる感じだ。

対処法は観客は逆に、できうるかぎり無防備でなければならないと思う。

「今」に接続せよ。


いしかわ演劇祭2011Bプログラム 2011/10/31
劇団アンゲルス「三人の子供たち」
【原作】 リャオ・プイティン(マレーシア)
【台本・演出】 岡井直道 【舞台監督】 本庄亮
【出演】 月原豊、澤田春菜、立塚夢子
【演奏】 ようかいばんど(千倫十/伊東真哉)+池田洋一郎
[2011/11/05 13:25] | シバイ | page top
胸いっぱいのメタファーを②(いしかわ演劇祭2011の雑感・感想文のようなものですね。)
古典落語のオチからでたコマ。良い意味での大学生演劇的大らかさとこだわりの空気。

coffeeジョキャニーニャ「まんじゅううまい」
作・演出 新津孝太

芝居そのものが終わったあとはなんだかピンと来なかったが、時間が経つに従ってジワジワ来る感じだ。
前半の落語のネタから芝居にする部分はちょっと重いけど、そのあと後半のなんちゃってRPGネタはものすごく楽しめた。
まさに「考えオチ」。
作・演出の新津氏の感性と知性、反骨精神の高さには、も・の・す・ご・い・も・の、がある!。
故 中島らもさんがもし金沢にいたらこんな感じだった?かも?

純化するという意味では、少し方向が違うのだろうけど、檄団トラベルボンバーズと趣を同じにするところがあるように思う。
あえて忌憚なきところを述べればそれは、本格派を気取らないというところではないだろうか。
自ら本格派を名乗っても良さそうなキャリアに到達しているcoffeeジョキャニーニャにして、敢えて本格派のにおいを忌避し、むしろ「本格派狩り」といっても良いくらいその臭いのするものをくじる、おちょくる。
そしてその実、ものすごくリスペクトしてたりする・・・実にアンビバレンツな少年少女たち、それがcoffeeジョキャニーニャ。

「まんじゅううまい」後半、唐突にRPGの勇者の旅立ちのシーンとなる。ここからが真骨頂。
どうしても旅立つ事ができないロールプレイングゲームの主人公、旅立とうとすればするほど武器屋までの道は遠く、必ず「中ボス」以上の強敵にやられてしまい、終いには自身が倒すべき悪のボスになってしまう。
夢オチのようなラビリンスを前半の落語ネタからつなげサゲとするあたりの、手練れ感MAX!

そのまま観ていても充分に面白いのだけれども、少し深読みをすると、実に面白い気づきがあることがわかる。
身近に潜む敵に簡単に殺されてしまい、いつまでも旅立てずに本来のゲームにすら手をつける事ができない。

始まらない勇者の物語。

これを今の日本や自分たちを取り囲んでいる世界の比喩として観たとき、フッと腑に落ちる。
本当の敵(黒幕)は身近にいる。
テレビ君なんかけっこうそれじゃないかと思う。

ちょっと本題からは外れるのだけれど・・・
笑える「間」はけっこう仕掛けられてて、もっとドッカンドッカン来るべきだと思ったのだが、会場はそれほどでもない。
これは金沢のお客様の特徴として、実際の会場の時空はドッカンドッカン笑いの渦という感じに来てないのに、感想では「すごく笑えた!」「おかしくて涙が出た!」というのが書かれていることがある。
感想に書く前に是非その時その場でドッカンとやってくれないかなぁと思う事が多いが、金沢の持つ特性というかDNAというか・・・。
「これは完璧評価がいいものです。」となったときの安心感からくる便乗感はものすごく、それこそ会場が渦巻くほどの大ウケも起きる。
でもドッカンドッカン笑いが来れば良いのかというとそういうものでもないし、奥ゆかしいのか、何なのか・・・。

むずかしいものだ、芝居は。


いしかわ演劇祭2011Aプログラム 2011/10/28
coffeeジョキャニーニャ「まんじゅううまい」
【作・演出】 新津孝太
【出演】 coffeeジョキャニーニャ
[2011/11/05 12:27] | シバイ | page top
胸いっぱいのメタファーを①(いしかわ演劇祭2011の雑感・感想文のようなものですね。)
D.D.D.「ヒトリズム」

ライヒが比較的多く選曲されていた印象がある。
それ以外の振り付けにもミニマルミュージック的なものが多く感じられたし、ハンドクラッピングもライヒ=オマージュ。
LAVITさんはライヒに触発されたのだろう。
そういえば民族音楽のアカペラ独唱は世界がかわった感じがして面白かった。
LAVITさんは歌もやるんだってことで、自由すぎるよ!LAVITさん!。

ってことで スティーブ・ライヒといえばミニマルミュージックの先駆者、押しも押されぬ大御所。
ミニマリズムと言えば物事を最小のものまで突き詰め本質に迫ろうとする考え方。

音楽の場合これが「リフレイン-繰り返し」となっておこる。
「リフレイン-繰り返し」でおきるグルーブ感に、何小節かに一つづつ音符の一部をずらすなどの仕掛けを施し、時にはプレイヤーの人的ミスをも即興的に取り込んでズレを起こし、そこにおもしろさを見出そうとする作品もあった。
ライヒの試みは商業的成功も伴っている、おびただしい数のCDやYoutube映像が存在している。

最小単位の「リフレイン-繰り返し」というのはロックやテクノなどとの親和性が高く意外なミュージシャンのトリビュートものも数多くある。ミニマルという“気づき”は膨大に増殖した。

最小のものが世界を覆う・・・考えてみればすごいイメージだ。

でも、そういうことだ、世界は最小のものでできている。

もちろんダンスの分野にもミニマルと呼ばれるものがあることは周知の事実。

さて舞台は、神のような、巫女のような、白いコスチュームの6人が「ふるさと」をBGMに瓦礫の中から箱(パンドラの箱)を取り出す。
そのイメージを残したあと、断片的に現在の時空を比喩するパフォーマンスが続く。
しまいにはその毒にやられてしまった「具象」な感じをほおりだす。
再びその箱を元に戻すイメージもあるが、戻したのだろうか?戻せるのだろうか?その箱は・・・。
最後はアンコールがかかって大団円。楽しいショウになった。

自分にはこういう作品としてのストーリー性よりも、D.D.D.が本当に目指していたのは身体性、そして少しの偶発性のおもしろさなのではと思えました。 即興と偶発性一杯の稽古場から産み落とされた「ヒトリズム」を観客の前で解き放ち、6人の目でその行き先を見届けてみたかったのではないだろうか。

当日はLAVITさんはもちろん、いまるまるの松田さんがよかった。最も自由な感じがした。
対局として金津さんの肉体に想像力を感じた。
いまるまるのなかむらさんは全体のバランスを取る役割に徹していたのかも知れないが、伸びやかでありつつ抑制した感じがよかった。そういう意味では、LAVITさんをフロントに置き、なかむらさんをアンカーに据えおけこさん金山さんを含めたヘキサゴン・バランスの舞台だったのかも知れない。
そしてそれは成功している。

ところで「いまるまる」さんの「まる」はミニマルの意味をもたぶん内包しているよね、きっと、と、勝手に思っている。

いしかわ演劇祭2011Aプログラム 2011/10/28
D.D.D.「ヒトリズム」
【振付】 LAVIT
【出演】 LAVIT、松田百世、なかむらくるみ、おけこ、金津敦子、金山古都美
[2011/11/05 11:30] | シバイ | page top
胸いっぱいのメタファーを⑤(いしかわ演劇祭2011の雑感・感想文のようなものですね。)
複雑な世の中・・・ところが意外にもそれは単純な理屈で動いている。

この作家はそこにとっくに気づいてる。


K@D第3世代
「獨犬伝《Dockken-Den》~獣偏走る~」

剣劇・ハードロック・アクション娯楽演劇。 金沢の新感線、KAZARI@DRIVEが第三世代と称するこれが初舞台とは思えないよくできた若手の出演メンバーで構成した娯楽作品を発表した。 それが「獨犬伝《Dockken-Den》~獣偏走る~」である。

作・演出の風李氏が自身のペンによる、二重らせんのDNA塩基配列のごとく、解き出すと終わらない、こぼれ落ちてくる言葉遊びの組紐を饒舌且つ情熱的に徹底したスピードと力強さで描ききった疾走感。
まさにDRIVE。
風李氏の重要なシリーズもの八犬伝から派生した「物語」として、マニア、フリークとしては絶対押さえておかなければならなかったマストな舞台として記憶される事になるだろう。
風李氏が「寓話」とするこの物語の中に仕組まれた「比喩」。
娯楽を楽しむ観客としてはその世界感で満たされているだけでも充分にチケット代の元を取れるコストパフォーマンスを持っているのだが、実はこの作品に風李氏が陰に日向に仕掛け、当て擦られた「比喩」を読み取る感性のヒダを拡げてキャッチできる楽しみを持つと、その観劇の楽しみは100の単位でパーセンテージが増していく。
錬金術のような、FXのレバレッジのような、1000円のチケットが200%300%・・・と、い・け・な・いギャンブル的に価値が上がるというと大げさですが。
では読み方のほんの一つを考察すれば、虚々実々入り乱れる現実世界の有象無象を腑分けして分解して一部取り出してみせたような同期感にその局面局面で耽溺してみるのも一興である。また、「宝刀守」が「宝刀」を失い、再び「宝刀」を取り返す物語と読むこともできるので、なら「宝刀」を「プライド」と置き換え一度「プライド」を失ったが再び「プライド」を取り返し・・・と読む事も可能だろう。
劇中語られる「アルパカ」のイメージはまさに黒幕のイメージ。

黒幕は実は隣にいる。

これは先のいしかわ演劇祭2011Aプログラムで上演されたcoffeeジョキャニーニャ=新津氏の仕組んだ世界感と通底している。

と、まぁ陰謀論者が口角泡を飛ばして論じたがるネタを振るが作・演出の風李氏はそれをさらりと見せて超然としているように見える。オレはもうそこにはいないよ、と。
精緻に組み上げられた正20面体パズル「ドジック」を両手に持ち、瞬時に解きあわせながら、軽やかにその目の前から次へと飛び去るのだ。いろいろあるけど明日に進もうと。足下にはドジック型のロックンロールラジオを残して。

いしかわ演劇祭2011Cプログラム 2011/11/03
K@D第3世代「獨犬伝《Dockken-Den》~獣偏走る~」
【作・演出】 風李一成
【制作】 斎藤清美
【音楽監督】 土田恭士
【出演】 山本翔太ほか、オーディション・キャスト
[2011/11/05 08:10] | シバイ | page top
仮設劇団ミリシーベルツ千秋楽

mSvs「ヤドカリの声」上演御礼 - 高田伸一

2011/11/01 (Tue) 03:47:57

まずは、やり終えた安堵。

金沢からでた原力雄さんという作家のすばらしい戯曲作品を現実の舞台にできた。

女優(と呼ばせていただきたい!)7人の力。

素晴らしい照明。

シンプルな、でも、これがなきゃどうにもならない部分が、とても良くバランスしたのがうれしい。

3.11以後、世の中は変わったことを、ゆめうつつに遊ぶのはもちろん、劇するところからこころみる。

あとはお客様のものです。

よくお越しいただきました。

ありがとうございました。



当日のご案内に寄せた拙文

原発事故が、演劇に突きつけているもの

高田伸一(仮設劇団ミリシーベルツ演出係/劇団110SHOW代表)


 まず、渦中にある事故原発周辺の方をはじめとする“我々”に「ひとときの時間を……」と衷心より申しあげます。 

「金融」「死の灰」「食品と放射能」「隠蔽」「発・送電分離」「特別会計と天下り原子力ムラ」「米国属国日本」「マスメディア情報利権」「電波幇間芸」「差別を食い散らかす原発」「CO2温暖化詐欺」「生物のこと」…。

 震災を原因とする原発犯罪事故は図らずも我々が暮らすこの世の中の仕組みのごく一部を浮き上がらせて見せてくれました。

 海外や国内マイナーメディアから聞こえてくる危機的で悲惨な状況と、あの日言い放たれた「直ちに健康を…云々」などという言葉に代表されるおびただしい数のアリバイの類とを比べるにつけ眼前に立ち上がってくるのは「二枚舌」という言葉。

 日々の生活を営む人々の側からと、支配する側からとでは、ものの扱い方や見方の隔たりがもの絶望的に大きいことの片鱗を垣間見た思いがします。

 演劇とは、劇場という時空に観客を中心とした緩やかなる集団を組織し、俳優の血肉を通して想像力を最大化させる行為であると考えます。

 しかし「3.11」は、今は否応なく「急場」で、想像力どころじゃないのだと迫ってきます。

 しかしだからこそ「劇」は、ありったけの想像力を使いアンテナをあげ、嗅ぎ分け、技を磨き、せめぎ合い、人々と現実の間に立ち、触発する時なのだと思います。

 これはそのまま「発狂」と言い換えてもいいでしょう。

 「劇」をする者が今しなければならないのは、その「狂」をもって身を挺してでも、この現実世界でヌケヌケと行われている「世紀の二枚舌」の「間」を埋めることだと考えます。

 今のこの取り返しのつかない現状を、情報利権屋の流す安全デマを疑う詩を、うたう。

 「劇」が想像を企てる事を自制したら 人間が人間である事をやめるようなもの。

 伸るか反るかはまだ続いていると信じたい。

[2011/11/02 08:14] | シバイ | page top
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