仮設劇団ミリシーベルツ
2011年10月30日と31日、金沢市民芸術村PIT2 ドラマ工房で、芝居を打つ事になりました。

演劇祭のテーマ/コンセプトにピッタリの脚本「ヤドカリの声(作:原力雄)」を舞台に上げるプロジェクト。

仮設の劇団、ミリシーベルツ。

自分はその演出係です。

情報はボチボチあげていきます。

こうご期待。
[2011/08/30 08:18] | シバイ | page top
剥製にされた夏
一度、金沢舞踏館(山本萌 主宰)の「舞踏」の稽古に参加させてもらったことがあります。
それは「肉体訓練を伴った内面探査」という感じでしょうか。
単に内的宇宙を探査するというのであれば「座禅」の様なイメージにもなるのかもしれません。
でも、それでは身動きがとれない、動けない。

金沢舞踏館の舞踏の稽古は肉体への意識を内側に拡げるだけ拡げ、
そのあげく、己の肉体のキャパシティを越えて
ポロポロこぼれてくるものを外に出そうとしている様に感じられます。
その作業を重ねていく。

自分の印象では、純粋に文系の作業。
肉体で詩が語れないだろうか?
肉体で絵画を表現できないだろうか?造形は?・・・その逆照射の可能性は・・・
・・・というような命題に挑み続け、肉体の現状とせめぎ合いながら錬成しているものにみえます。


金沢舞踏館「剥製にされた夏2011」白榊ケイ独舞公演
2011年5月28日29日 金沢市民芸術村ドラマ工房


5月に行われた公演なので、もうふた月以上経ってしまい、いまさら感想もなにも、それってどうなん?思い出せるん?っていうツッコミが来そうなものですが、なーに大丈夫。
舞台(パフォーミングアート)は、たとえその瞬間が過ぎ去っても、自分にとって良質なものは、印象が心の中で純化して、確固たる領域を確保し、番地が指定され、ずっと残っていくものなのです。
だから、大丈夫(などといってみる)。

さて、舞踏を見るという行為は、自分にとっての楽しみの一つなのですね、だから、時間がある限り観に行くのですが。

で、客席に入るとそういう向きの方が多いようで、年齢層は高め。
みんな何かしら創作活動をしてそうな、ちょっと強面っぽい印象(あくまで個人の印象ね)。

ま、そんなことはないんだろうけど。

さすがは金沢舞踏館。海外公演もよく行うだけのことはあります、日本在住の海外の方もチラホラといらっしゃるようです。
身体表現や音楽表現は軽々と言葉を超える。
芝居と違って・・・ま、ここは悩ましいところではありますが。

主宰の山本萌氏の公演上の注意事項のインフォ。
照明が暗くなる。
音楽が、アイリッシュ?ケルト?少し浮き浮きするような感じで舞踏が始まる。
すると自分の斜め前の人の肩が揺れ出した。
最初は笑ってるのか?と思ってたが、ハンカチで目を押さえている。
「あ、泣いてる?」。
いくら舞踏が好きでも、速攻で泣くか?
が、それほどの間をおかず、隣の人や、もう少し席の離れている人も、泣いているそぶりを見せ始める。
少なくともその日は4人から6人くらいは涙を禁じ得ないという状態になってました。

と、ここまで書いておいて、実はこの感覚は自分はすでに「なんとなくわかる」のです。
自分もこの4月1日に催されたチャリティーコンサートの時、感じていた感覚を、その舞踏を見て速攻泣く行為をみて思い出していたのです。

震災以後(正確には去年の6月2日以降だけど)ずーっとやりきれない思いを噛みしめながら元気なく過ごしていた自分が、1曲目の大音響を浴びた瞬間にフッと楽になり涙腺が緩くなる感覚を感じた。
「癒やし」などという言葉で括ったとたんウソっぽくなるのだけれど、その感覚は「生きたパフォーマンス」と同期したときに訪れる。

そういう意味では白榊ケイさんという踊り手は同期する波長をいくつも持っているのだと思う。

舞踏を見るのが好きだと書いておいてなんだけど、実はいきなり舞踏を見せられてもそれがなにを表現しているのか正直さっぱりわからないことの方が多い。というか・・・そう考え、思い出してはみるもののやはり、わからない。
この「剥製にされた夏2011」も実はそうで、踊り手の白榊ケイさんには申し訳ないが、いろいろ繰り出されてくるポーズや動きには何の意味があるのか。
時にはそれが美しいのか醜いのかさえ曖昧に感じられる事ばかりなのだ。

書けば書くほど曖昧になっていくそれが、しかし何故、自分にとって「楽しみ」であり「同期した感じ」につながるのか。
気になって仕方がないものになりつつ、それを目の当たりにしながら「それはそうと・・・」と自分の事を省み、心はここではないどこかに飛んでいる。そしてそれがちっとも後ろめたくないのは何故か?。

思い当たることがある。
それは「信用」なのだと思う。
ケイさんが踊り手に変身する“ひと呼吸”を入れたその瞬間から、
手首で、手のひらで、その先の指先で、虚空を指すともなく指した瞬間から、
観客から「この人なら大丈夫だ・・・」という暗黙の「信用」を得てしまっている。
ここまで足を運んだ労力と、これからここではじまる45分を、お任せして寄りかかっていても大丈夫なのだ、なんなら一緒に飛んでもいけそうだという「信用」を、一瞬にして得てしまう。
その領域に達しているということなのだろう。

ああ。だからなのか。と。勝手に納得している。

舞台上でのパフォーマンスに「人間力」のパラメーターがあるとすれば、それが開演と同時にぐーんと上がり、観客の人生を投影する大きな写し鏡のようになっていく。
優れたカウンセラーのそれのように、観客各々が勝手に自分を語り(もちろん無言で)、自分に気づき、取り戻し、元気になっていく。
言葉はいらない。衣擦れと呼吸、すり足の音。これで充分。
だからこそパフォーマンスのガイドとして効果的に配される音響効果や照明効果が生きるというものだ。

山本萌さんの踊る舞踏も私は大好きなのだが、今回のこれは、その世界感とは別の、もっとおおらかで無邪気な感じがした。
すこし外連味が漂う舞台効果のテクノロジーも含めて踊り手とスタッフが「一体」となった表現へ昇華しようとしている。
そこが新しく、かつ、下世話になりがちなところをギリギリ嫌らしくなく提示できてきていたのではないだろうか。
このパッケージは金沢舞踏館が2011年時点で未だ新鮮でプログレッシブであることを証明する一里塚として記憶されるべきものだろうと思う。

だからこそ「へぇー?ブトー?」「どうせ解りっこないし・・・」と、やんわりと遠巻きにする一般の人にこそご覧になっていただきたい。
情報化社会といわれて幾星霜。
「情報のようなもの」を「使っている」ようで、実はその「情報のようなもの」に否応なく絡め取られ、身動きができなくなっている現代人こそ、パフォーミングアートの鑑賞という行為をむしろ積極的に利用し、その時間をつくり、おおっぴらに、堂々と、情報化社会から避難してほしい。
そして鑑賞中くらいはケータイの電源を切り、「情報のようなもの」で飽和・沈殿したした社会から大手を振って“いっとき”行方不明になってやる!と宣言していただきたい。と、考える。
[2011/08/06 00:09] | シバイ | page top
| ホーム |