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前衛舞台表現の楽しみ
ひょんなことから新人類人猿という金沢の劇団の芝居を観ることに。
金沢市民芸術村で行われていた、ワークショップの成果発表会です。
とはいっても2000円。立派な金額です。本公演だよね、これ。
新人類人猿の主宰:若山知良さんが大田省吾さんの作品をかけるとのこと。
新人類人猿は金沢の前衛劇団です。

芝居は昨日から連チャンです。久しぶりに。
前衛を見るとき、いつも祈ることがあります。
「どうか私自身、静謐な時を得られますように」



結論から言うと「よくつくってある立派な舞台」でした。

どこかへとんでいけそうな感じの雰囲気のある「場」。こりゃ良いなぁ……。
「なぜ金沢市民芸術村を使って芝居をするのか?」「ドラマ工房でなければならないのか?」
その意味を明確に感じる、素晴らしい装置と環境を生かす照明。
蛇口がしまらない、しどけない水の音。水洗トイレの音。
スキャニングノイズと海外のテレビ番組のノイズのコラージュ。右に左に奥に定位する。芸が細かい。

死にそうな声の出演者たち、生気が感じられない。
全然元気のないスリラーbyマイケルジャクソン。油の切れかかったゾンビやバイオハザードという感じ。
でもこの作品なら、これでいい。
言葉はズタズタに切り刻まれ、印象だけがコダマのように少し遅れてくる感じ。
夏の夜の鬱屈。

時折、というかひっきりなしに聞こえる花火の音
「今日は花火大会だよな」
外は美しい花火が乱舞していることだろう。
その残像に思いを馳せながら、しみったれた舞台をみている自分を含めたこの場の人たちのことを思う。
いいんじゃないのかなぁ、こういうのも。

環境は自由になれそうな空気だった。

そんな中、時々「さし出してない人」をみつけてしまう。
「ああ」と……興が冷め、舞台上からその演技者を排除している自分がいる。
それでもその人たちは無意識にその身体と心にこびりついたノウハウに頼って、さらに武装までして迫ってくる……ヤボだなぁ、ほっといて欲しいのに。
「このくらいはできるようになったんだよ。私。」
みているこっちは、そうじゃないのに「どう?どうよ?」とつきあわされる。
観客のモノにするわけにはいかないとでも言いたげに、時に嬉々として過干渉で狂いたげな人たち。
だから発表会なのか。膝を打つ。
その人は観てほしいのに、見ると、こっちの静謐な時間は断ち切られ、現実のしがらみに引き戻される。

その心根を写す鏡になる肉体。
逆に一瞬でも差し出せた肉体はそのとき「超えて」いるはずなのだが。
さし出せたのかそうでないのか。
この差……恐ろしい。

やがて花火は終わる。
静かになる、外。
それとは関係なく劇場内は佳境に入ったらしい。
人工的に仕組まれた環境が良くできているが故か、逆に物足りなく感じる。
芝居はいよいよクライマックスらしい。
しかし「外」が気になる。
もしここに来ていなかったらと想ってみる。
あるいは、もしそのワークに参加していたらと想像してみる……
あるいは、もしこの時間この上空を遊覧飛行していられたら……花火をかわしながら犀川の様子を見ただろうか。
昨日の芝居を想う。
と、不思議なことに昨日感じたことがより明確になっている。
日本人の歴史を想う。
今、目の前で繰り広げられる芝居をみるにつけ、だからこうなるのか、こういうのもありか……。
この芝居ではなくあの芝居のことを思い出しながら、この芝居のことも想っている。
少し愛おしくもなる。

自由になりかけたかな?と思ったら、拍手が起きていた。



……俺も枯れたものだなぁ。
さ、暑いし、片町!飲み直し、飲み直し。
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[2008/08/03 15:14] | シバイ | page top
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